産科医 吉村 正 逝去について —


吉村正の娘、織絵よりのご報告とご挨拶。

 2017年11月13日

吉村医院の元院長である父 吉村正におきましては、

長い間、公私ともに多くの皆さまに支えていただき、慕っていただき、

お陰さまで、まことに有意義、かつ幸せな人生を送ることが出来たろうと思います。

ご縁頂いたすべての皆さまに、心より感謝申し上げます。

 

略儀ながら、こちらにて、吉村正の一人娘 大辻織絵より父の逝去のご報告をさせていただきます。

2017年11月7日23時2分、父 吉村正が永眠いたしました。

 

本人が気に入り、長く心にかけてきた場所で、家族親族のみでの見送りをさせていただきました。わがままなことで畏れ入りますが、どうかご容赦くださいませ。ご厚志につきましてもまことに失礼ながらご辞退させていただいております。

ご理解の程を何とぞお願い申し上げます。

 

 

産科医として、父は五十年余りお産に関わらせていただいて参りました。お産についての本の出版や講演もさせていただき、リタイア後はなかなかのわがままを通して過ごしました。そのような生き方ができたのは、本人の情熱や頑張りと共に、陰になり日向になり支えていただき、慕ってくださり、共に歩んでくださった実に多くの皆様のお陰でありました。本人に代わり、心より皆様に感謝申し上げます。

 

父に関する想い出話をひとつ、ふたつ、記させていただきます。

お産一色にも見える父の人生のなかで、或る時、里山の価値や素晴らしさについての講演を依頼されたことがありました。隣町の幸田町のその素朴な里山の風情を父はとても気に入り、よく散歩に出掛けておりまして、その経験がお産に対する考え方や関わり方に少なからぬ影響を与えたことは確かです。今日見逃がされがちな里山という存在の価値や素晴らしさについてはお産のお話しのなかでもしばしば触れております。

そのことが幸田町の知るところとなり、2000年に幸田町からそのような講演の依頼をいただきました。お産以外のテーマでご依頼いただいたことに父はいたく感激し、私には歌ったらどうだと奨めてくれました。私にとっても嬉しい体験となりました。

ある日、父が幸田町で撮った写真を見せてくれ、畦道などでこんな風にちらちらと赤く色づく草があるんだ、知っとるか、くさもみじと呼ぶんだと教えられました。くさもみじと呼ばれる植物は実は私達の認識とは違うものだったことを後に知るのですが、父がそう呼んでいた「くさもみじ」はまるで我々の体内を流れる血のような鮮やかで艶のある美しい赤色をしておりました。その鮮やかさを思いながら、人類への祈りとも鎮魂ともとれる歌がまるで自分の子供のように生まれてきました。その歌にて幸田町の講演で父と共演させてもらったことは未だに忘れがたい想い出です。

 

それからの時間、我々父娘の間にはそれまで以上に紆余曲折がありましたが、たまにある気のおけない会話のなかでよく、どちらからともなくどっか遠くに引っ越そうかという話しになりました。いい歳をして父を独り占めしたいという想い、閉塞感、父の仕事振りが彼自身を痛めつけているようにも見え、自分の身が傷むような想いもありました。引っ越そうという話しは私は半ば本気でしたが、その会話は空想を楽しんだという域は出るものではありませんでした。父は責任感もこだわりも強い人でしたので、本気で行動に出ることはなかろうとは私にもわかっておりましたが、素の父がそこには漏れでておりました。

 

実は医師になりたくなかった父。神経質なほどに繊細な優しい性格の少年だった父は28歳で祖父を継ぎ、少年のその心のままで、いつしか産科医として男として賛否両論頂けるほどのダイナミックな人生を歩むに至りました。サービス精神が突き抜けて旺盛な父は、「産科医 吉村正」「吉村先生」への期待に応えようと日々懸命でした。最晩年の父を思うにつけ、その重責は並大抵なものでなかったろうことは容易に推し量られます。

父は人生の最後の最後で、「産科医 吉村正」「吉村先生」という役割をやっと降り、純粋に一人の人間に戻ったようでした。亡くなった父の顔は、様々あれども、よき人生であったのだなと思わせてくれるに充分な、すっきりと穏やかな表情でした。笑みが浮かんでおりました。そのような表情を見せてくれたことは身内にとってはまことに有り難く、肩の荷の降りることでありました。

西郷隆盛が死の間際に遺したとされる「このへんでよか」という表現を父は気に入っておりました。父自身がこの人生を全うした今、まさに彼の生きざまに対して「このへんでよか」以外、表しようがない感じが強く致します。

 

 

皆様のお心のなかには皆様それぞれの父の姿がありましょう。それは私のとは全く異なる部分も少なくないかと存じます。

ただ私が思うに、父は皆様の望むものを共に望み、成し遂げることのできる力を持っておりました。しかし、父自身が望んだものは特定の形あるものではありませんでした。目に見える形の奥にある本質的な美しさをただただ観ていたい、引き出したい、表現したいという強い想いのみでした。父の体現したものは、型にはめることも名前をつけることもできないものです。

 

私自身を含め、父と縁を持ってくださった皆様が、それぞれの素晴らしさをそれぞれ独自に発揮していかれることこそが真の継承だと私は思います。

心よりありがとうございました。

 

娘 大辻織絵

亡くなるまでの経緯について。

2017年11月20日

父の逝去に関して、余りにも突然過ぎ、信じられずお心の置き場なく感じておられる方もいらっしゃるかと思います。

簡単ながら、少し経緯をこちらに記させていただきます。

 

実を申しますと、父は吉村医院の院長を退く前、かなり体調を崩しておりました。専門医の診断は受けなかったのですが、脳梗塞だったとのことでした。その際、ちょうど娘の私は父と袂を分かっておりました。父が体調を崩したのは、私が父には死ぬまで会わないと宣言して家を出てきてからそう時の経っていない頃だったと聞いております。父譲りの頑固さゆえ、倒れようがどうしようが、帰ったりしないと覚悟して出てきておりましたので、そのまま半年ほどを過ごしました。

その間、本人が極端な病院嫌いであった為、できることは民間的治療のみだったように聞いております。しかし、有り難いことに、再び我々が相見える時にはなかなか回復もしておりまして、その後にお目にかかる機会のおありだった皆さまには、割に元気そうな顔をお見せできたこともあるかと存じます。

 

しかし、今年2017年になり、春頃から体内で何らか病的な状態が進んでいると思われる、目に見えてよろしくない兆候が出て参りました。7月末に意を決して専門医の診察を受けさせようとしましたが、それまでの病院嫌いの程度を越える凄まじい本人の抵抗があり、総合病院の看護師さん方もひるむ程であったり、あまり興奮させ過ぎるのも差し障りがあるとの医師の判断もあり、なんとか出来る検査のみにいたしました。その日にやっと叶った幾つかの検査結果から専門医の診断による服薬治療を徐々に試みておりましたが、改善が見られず。今年9月半ばを過ぎ、見た目に急速に病状が進み、本人も余りの体調不良に7月の受診の時ほど抵抗することも出来なくなっていた為、救急にて総合病院に入院させることとなりました。その時点でやっと必要な検査を一通り受けさせることが出来、その結果、複合的な原因が絡み合った非常に芳しくない内臓の状態になっており、医学的には非常に厳しい状況だとのことでした。85歳という年齢と本人が治療に全く協力的でも前向きでもないため、根本治療は不可能との判断となり、症状を表面的に和らげる治療のみをお願いすることとなりました。

どこまで医療を介入させるかについてたいへん悩みもし、主治医とも夫とも何度も話しをしまして、最後は、延命治療をやめ、本人の生命力に任せようと決心するに至りました。

 

また、父は産科医として、妊婦さんおひとりおひとりに対して必要な医療を繊細に見極め、必要に応じてのみ使うに留めることを旨としておりましたが、本人自身においては、最晩年、特に医療を非常に嫌い、極端に退けておりました。入院が叶って後のCT検査の結果、脳の萎縮がかなり見られ、アルツハイマーの状態だとわかりました。父が医療を極端に嫌がるのは、私は信条ゆえだとばかり思っておりましたので、あの凄まじい抵抗や罵りを思い出すにつけ、脳の変化によるものでもあったのだ、アルツハイマーは完治は無理としても心持ちを穏やかにする術がなかった訳ではないのだと知れると、もっとやりようがあったのかもしれないという想いが巡りました。

とはいえ、父はどこかで、これまでの自分自身の生き方を貫いているという部分もあったと感じるところもありました。

心身ともに芳しくない状態に至り、そのことを皆さまにお伝えすべきかどうかにつきましては、そうしたとすれば、父に会っておきたいと訪問してくださるであろう皆さまが大勢おられるだろうと思われました。そんな皆さまに対して、父自身が正気で対応できないかもしれないからであるとか、この状態を皆さまに見せたくないからとかいったことではありませんでした。ご存知の通り、父はとてもサービス精神が旺盛な人間であり、細かいことを気にする人間でありました。元気な時にはそれが発揮できるるのは本人にとって張り合いであったり喜びであったと思います。が、認知症やアルツハイマーというものは、脳の萎縮などによって、健常な人間が想像もつかないほど周りの状況を認知する感覚が極端に狭まってゆき、周りの情報を十分得られないため、不安や恐怖に陥りやすくなる病気だと知りました。言ってみれば、からだの自由が制約され、様々な感覚が遮断されたなかで突然からだに触れられたり、声がする、音がする、そのような状況におかれれば、誰しも恐怖を感じ、大声を上げて逃げたり抵抗したり反撃したりしたくなるものかと想像します。大げさな話しでなく、それに当たらずとも遠からずの状態であったと思います。そのような状態の方に対して、編み出されたコミュニケーション法・ケア方法「ユマニチュード」というものを知り、それを素人ながら試してみると、父の対応も和らいだように感じました。(父が最後の2日間を穏やかに過ごしたのは、ユマニチュードを理念の1つの核とされているケア施設でありました。これもたいへん奇しき出逢いでした。)

それだけでなく、内臓状態がたいへん低下していたことによって、非常なからだの辛さもあったと思います。辛ければ辛いほど誰しも怒りを覚えたり、平常心ではおれなくなるもののようにも思います。お客様にお会いして、自動的にサービス精神のスイッチが入ったり細かいことが気になるような性質の父には、お会いすることでいかほどかの喜びや張り合いがぜったいになかったとは言い切れないかもしれませんが、あの段階では、できるだけ、静かに、気兼ねなく、気遣いもせずに過ごせる状態を維持することを優先させていただいておりました。

 

また、を慕ってくださった皆さまには、何が何でも生きていて欲しい、生きてさえいてくれれば・・・とお感じになられる方もいらっしゃるかと思います。実際、父と長い長いご縁の方からそのようなお気持ちをお聞きしておりました。

私が父について延命治療をなるべくしないと決心をすることになったのは、父の考え方に賛同していたからですが、私の脳裏に焼き付いている、父が母を看取ったときの記憶が、主治医より判断を求められるときの一番の指針であり、自分を支えるものでありつづけたからではなかったかと思っています。

父の妻、つまり、私の母は脳出血を患い、20年程能動的な行動言動が起こせない脳神経の状態で過ごしておりました。そして、それがよくなることなく亡くなりました。その日、父は敷地内の自分の医院で外来診療をしておりました。数十年来実家で父母を手伝ってくれていた家政婦さんがお休み明けで出勤され、私も何かの仕事から実家に帰っており、顔ぶれが揃っていたある月曜日の朝のことでした。それまでの一週間、母は起き上がれない状態になっておりましたが、意識はあり、反応もしてくれていたのですが、その朝、母の様態が急変しました。すぐに父を呼び、父は看護師さんに点滴を指示し、自分は挿管をして気道を確保しようと試みておりました。しかし、母の腕の血管はその時もう点滴の針を受け付ける状態でなくなっておりました。そのことを知ると、父はなんとかして挿管しようとしていた手を止め、もうやめよう‥と静かな声で言いました。皆に伝えているようで実は、自分自身に向かって言い聞かせていたような印象でした。その時の私は諦めずにまだまだ処置を続けて欲しいと思ったことを記憶しています。しかし、心は確かにそう感じてはおりましたが、どこかで、あの時、挿管をやめる決心をした父にとても共感していた気がします。

息を引き取った母はその皮膚も髪も表情もまるで数十歳いっきに若返ったような様子でした。私の肉体は悲しみつつも、なんと美しいのだろうと母に対して感動のようなものさえ感じておりました。不自由だった心やからだを抜け出し、まるで羽が生えて飛び上がっていったような気さえしました。荼毘に付されるまで、母はずっと若々しく美しく、それを見ているほどに、あの時、もうやめよう‥と決心したのか覚悟したのか、その時の父の気持ちがどんなだったかを思い、あの時点で延命救命治療をやめた父の選択に感謝の念を感ずるようになりました。

 

何が正しいかは私にも未だ断ずることはできません。誰にとっても正しいことなどこの世に存在し得ないものなのでありましょう。

相反する想いが浮かんでは消えました。

そうではあるのですが、これまでの選択に対して不思議なほど後悔を感じたことがありませんでした。

 

 

ここに来て、私にとって父は父ではありましたが、それよりも、師であったと思い至ります。

師としてのみであったなら、望んだ出演ではなかったとはいえ、父と父の仕事が題材となった映画「玄牝」の中で父をなじる精神状態にもなっていなかったであろうし、父が出ろというのに対して、異議を差し挟まず素直に出演していただろうという想いにも至りました。さらに、父は口では否定しつつ、私に医師になり医院を継いで欲しかったのではないかとも思うようになりました。とはいえ、すべてが過去のことです。

まさに今の私の心にあるのは、娘として、吉村正と出逢えたことに、非常なしっくりしたものを感じ、今の今も、彼は私のなかで確かに生きているということです。父の最後に向かってすることになった幾つかの選択も、父という師がくれた大きな課題であったという想いでおります。

 

 

このようなお伝えの仕方については心苦しさを感じますし、身内の勝手な捉え方をお伝えしているに過ぎないことかもしれません。

ですが、私の捉え方で捉えた事実ではありますが、事実を知っていただくことで、皆さまのお気持ちが少しでも安定の方に向かうのならと思いました。反対でありましたら、申し訳もございません。

 

 

父に深く想いを致してくださる皆さまには、現実的な交流もさることながら、深い精神的交流がおありだったと確信しております。その交流は必ずこの世とあの世の隔たりすらも超え、広がっていく力強いものだと確信しております。

父と出会い、その中からかけがえのないものに気づいてきてくださったことに心より感謝いたします。ご縁頂いた医療者の皆さま、父が診させていただいた妊産婦の皆さま、著書や講演などを通して出逢わせていただき、現実に、そして心のなかで交流させていただいた皆さまとの縁は、父にとって「共に、道を歩む」同志のようなご縁であったろうと思います。

そして、現に、現吉村医院院長の田中寧子先生、スタッフの皆さまをはじめとして、日夜幸せなお産のために努力してくださっている全国の医療者、お産に関わる皆さまにも、父に代わって改めて感謝申し上げたく、心よりありがとうございます。

 

皆さまの心のなかに確かに灯った炎は、なにがあろうと、皆さまの今も未来も力強く照らしつづけていると信じて。

 

 

大辻織絵